2010年05月16日

黒電話とか丸いポストとか

100516 丸型ポスト.jpg

「昭和の気配」 (砥部町・高尾田)


 私がたまに昼飯を食べに出かける「みにトマト」には、なぜか昔ながらのダイヤル式「黒電話」が置かれています。単なるオブジェではありません。時に「ジリリリリン!」とけたたましい音をたてて、お客さんを驚かせることがあります。そう、実はこの黒電話、今も現役で活躍しているのです。

 そんな黒電話と同じようにどこか懐かしさを感じるのが、『丸型』の郵便ポスト。
 
 朝の散歩で、たまたまいつもと違うコースを歩いた時に発見しました。
 
 そばによってみると、きちんと
 
     収 集 時 刻
 
   平 日   10:00
   休 日    9:30
   
 と書かれています。今でも現役のようです。
  
 このポスト、正式な名前は『郵便差出箱1号(丸型)』。昭和20(1945)年の終戦後、物資の入手が軌道に乗るようになった昭和24(1949)年から新しい鉄製ポストとして実用化されました。
 (参考:逓信総合博物館てぃぱーく

 今では生産中止になっている丸型ポストですが、現在でも全国に5000台程度残っているそうです。単純計算で5000(台)÷47(都道府県)=約106(台)。
探せば愛媛県にも100台位は残っているのではないでしょうか。

 このタイプのポストは都会では非常に珍しいようで、神奈川県の川崎市では、「丸型ポスト」復活事業が実施され、県内の小学校に保管されていた丸型ポストが現役の郵便ポストとして街角に2台設置されたそうです。
 (参考:かわさき区の宝物シート
 
 
posted by とべっこ at 10:10| 愛媛 | Comment(24) | 砥部の風景 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月14日

陶街道五十三次 四番 「大森彦七と魔住ヶ窪」 2

藤の幹.jpg

「藤の幹」 (魔住ヶ窪/砥部町・重光)


(前回からのつづき)


「たまには、こんな幸運もあるんじゃなあ」

 少し鼻の下を伸ばしながら、女を背負う彦七。そして50mほど行ったところで奇妙な事が起こります。背負う女の体が急に重くなったのです。「おや」−彦七は思わず肩越しに振り返りました。彦七は思わず足をすくませました。美女の顔が「鬼女」の顔になっているではありませんか。女の身の丈は、2m余りに伸びています。眼は赤く血走り、口は耳元まで裂け、振り分け髪の下から、牛の角のような角が2本、にゅっと突き出ています。

 「・・・・・」−彦七は腰がぬけ、そこにへたりみました。鬼女は彦七の髪を掴んで、空にとび上がりました。「逃がすか−」、我に返った彦七が鬼女に飛びついたので、二人はもみ合いながら、田のなかに転げ落ちました。

 あまりの出来事にあっけにとられ、あれよあれよと様子を見送ってばかりいた家来たちも我に返り、主人の一大事とばかり駆け寄って来ました。

 鬼女は、多勢に無勢、これではかなわないと思ったのか、彦七の体をすてて、空高く舞い上がり、雲の向こうに消え去りました。その後、地の底から響いてくるような不気味な声が聞こえてきました。
 
 「わらわは楠正成の怨霊なるぞ。湊川の恨み、いかで晴らさずにおくべきか」
 
 その声を聞いていたのかいなかったのか、田にただへたりこんでいる彦七。家来たちが抱き起こしてみると、鬼女に精気を吸い取られたのか、ただ口をぽかーんとあけ、うつろな眼で虚空を見上げているだけだったといいます。

 その後、大森彦七は正気に戻ることがなく、やがで狂死したといわれています。
 
                  ◇
                  
 今、地蔵堂の周囲はみかん畑と新しい住宅街が広がっています。伝説舞台となった矢取川も、今では流れる水もなく草が生い茂り、川としての存在も忘れられそうで、時の流れを感じさせます。
posted by とべっこ at 19:47| 愛媛 晴れ| Comment(2) | 陶街道五十三次 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月09日

陶街道五十三次 四番 「大森彦七と魔住ヶ窪」 1

hikohiti.jpg

「藤棚と地蔵堂」 (砥部町・重光)


 砥部以外の方で、大森彦七と聞いてピンとくる人はそれほどいないと思います。地元・砥部でも陶街道五十三次で大森彦七にまつわるスポットが二ヶ所選ばれてから初めてその名を知った人も多いのではないでしょうか。
 写真の地蔵堂が建つ「魔住ケ窪(茄子ヶ窪)」は、大森彦七が楠正成の怨霊に出会った場所といわれています。

                  ◇

 大森彦七は、南北朝時代の武将で砥部・千里城の城主。建武3(1336)年、湊川の戦いで楠正成を切腹に追い込んだ人物として知られています。
 その功を称えて将軍・足利尊氏は彼に広大な領地を与えます。そして彦七は一躍、豪族として大出世することになりました。

 多大なる名誉と財力を得た彦七は、酒宴や猿楽(※)などにのめりこんでゆきます。特に猿楽への入れ込みようは相当なものだったようで、、砥部の隣の松前の山際に自分で猿楽の桟敷(さじき)を造り、自らも猿楽に出演する程でした。

 毎年行われる、松前・金蓮寺の春祭りの当日、彦七はそわそわと落ち着きませんでした。暦応5年(1342)の事です。

 「わしの舞で、領民達を喜ばしてやるか」

 「自分の舞は名人級よ」−そんな自惚れが強かった彦七は、いそいそと金蓮寺へ向かいます。その途中、茄ケ窪という場所にさしかかりました。

 そこで彦七は、一人の娘が立っていることに気が付きます。年の頃17、8。緋の袴に五つ衣、それをたおやかに着こなした美女が、思案にくれているようです。

 「娘さん、どうかされたかな」
 
 「はい、実は川向こうに行きたいのですが、流れが速く深い川に難渋しております」
  
 彦七が冗談半分に言いました。

 「じゃあ、娘さんよ、わしがおんぶしてあげようか−」

 すると、その声を待っていましたとばかり、その美女は流し目に彦七を見ながら、

 「では、お言葉にあまえまして…」

と、いそいそ身を寄せてくるではありませんか。意外な展開に意表をつかれながらも、ラッキーとばかり背中を差し出すと、美女は恥ずかしがる様子もなく、彦七の背中にしがみついてきました。

                     (つづく)


※「猿楽」:平安時代から室町時代にかけて流行した日本の芸能。能楽・狂言の源流とも言われる。


posted by とべっこ at 15:25| 愛媛 曇り| Comment(0) | 陶街道五十三次 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする





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